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宮本充のきまぐれ週報2

郷土愛

は自称「ハマっ子」です。
5才まで横浜にいました。
今、横浜に住んでいます。
「ハマっ子」と言えると思います。
でも周りはそう見てくれません。
プロフィールも「大阪出身」になっています。
一度だけ「横浜出身」に変えたことがありますが、すぐに「大阪出身」に戻されました。
「小・中・高と大阪にいたんだから大阪出身でしょう」
もっともな話です。

幼い頃から住む町を転々と変えて来た僕にとって、どうも郷土愛の感覚は薄いようです。
そして正直言って、長年住んでたくせに大阪にはちょっと苦手意識がありました。
住んでいる人の日常のテンションが少し高いような気がして。
会話のテンポも速いし。
ちょっとついていけないような感じがありました。
北海道に引っ越した時には、「ああ、ここの人達はなんてのんびりしてて、僕にはこっちの方が合ってる!」と思ったものです。

それが最近、大阪がとても懐かしくなってきました。

僕の母校は、堺市の大阪府立泉陽高校。
昔は女子高でした。
のんびりとした校風は「泉陽牧場」と言われています。
僕にとって、小・中・高の中で、唯一、転校せずに過ごした学校です。

校の同窓生が「ヴェニスの商人」を見に来てくれました。
いつも見に来てくれる女性グループで、今は関東に住んでいる一年生の時の同級生です。
終演後にお酒を飲んだ時、彼女達が言いました。
「宮本君、東京支部の同窓会に、一度、来てみない?幹事の人がとても面倒見のいい優しい人で、毎回、東京の面白いとこに連れてってくれんねん」

関東在住の泉陽高校出身の人達の集まり、「泉陽会東京支部」。
ずっと案内は貰っていたのですが、「いつかその内に」と思いながら一度も出席したことがありませんでした。
彼女達に誘われ、今回、初めて参加させてもらうことにしました。
最近、妙に懐かしく思えてきた大阪。
それと、「江戸・東京さんぽ」という、集いのタイトルにも魅かれたのです。

雨の晴れ間の週末。
新橋の近くのレストランに集合し、そこでまず昼食と歓談。
同級生以外は初対面の人ばかり。
最高齢は83歳の方も。
僕は同級生たちと離れた席になり、最初はかなり緊張した昼食となりました。
その後、レストランを出て、虎ノ門駅へ。
銀座線と丸の内線を乗り継ぎ、四ツ谷駅で下車。
向かったのは迎賓館。
今回の「さんぽ」の目的地です。
若い頃、東京に出て来て最初に住んだのが、その近くのアパートでした。
迎賓館の辺りはよく自転車で通っていたのですが、まさか中に入れるとは知りませんでした。
空港なみの身体チェックを受けて(身分証明物も必要)、中へ。
美しく壮麗な部屋を見て回り、楽しいひと時を過ごしました。。
そして、久々に聞いた大阪人同士の会話。

迎賓館の中の大勢の見物客を見て。
「ようけ人おんな。こんなにおったら、誰か知ってるヤツに会うかもしれんな」
「どんだけ顔ひろいねん」

内部の装飾を見て。
「きんぴらや~!」
「金ぴかやろ」

豪華なシャンデリアを見上げて。
「重さ800㎏やて!」
「小錦4人分や」

そして、庭での記念集合写真。
同窓生全員が迎賓館をバックに並び、幹事の人がカメラを構えたので、僕が「代わりましょう」と言うと、幹事の人は、「大丈夫、今、頼むから」と言い、通りかかった見知らぬ人に声をかけ、カメラを渡すと、自分も列の中に。
東京人なら、まず一人が撮影し、その後、誰かと交代して、計2枚、撮るところです。
なんて合理的な。
さすが大阪人!

迎賓館を出た後は、四谷駅近くの居酒屋で宴席。
飛び交う大阪弁と漫才のような会話に、すっかり打ち解け、僕も大阪弁でジョークをかましてました。

「ふるさとのない男」を気取ってきた僕です。
しかし最近、この歳になって、郷土愛なるものが芽生えてきたようです。
そして今回、高校の先輩、後輩と会い、思いました。
「やっぱり僕は…大阪人」
いや、でもハマっ子でもいたい。
とりあえず、多国籍ということで。

、自宅の自分の部屋の壁に、数か月前の新聞の大きな切り抜きの写真が貼ってあります。
大阪・新世界の「ジャンジャン横丁」。
JRのガード下で、2人のおっちゃんがギターを弾き、それに合わせて客のおっちゃんが歌い、それを、缶ビールを持ったおっちゃんが聞いている写真。
今、一番、行ってみたいところです。



雀と3

都内のある公園にて。
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  1. 2016/06/22(水) 01:02:22|
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ズンときた言葉

団の先輩の稲垣昭三さんが亡くなりました。
昴の前身「劇団雲」の創立メンバーです。
昨年の西本裕行さんに続き、我々は二人の大先輩をなくしました。

僕は、初舞台の「アメリカの日々」と、「怒りの葡萄」で共演させてもらいました。
稲垣さんは蝶が好きで、旅公演の休演日には、虫取り網を手に、近くの山や川に蝶を採りに出かけていました。
少年のように純粋な人でした。
舞台に立つと、何とも言えない独得の雰囲気がありました。
昔、大先輩の内田稔さんが言いました。
「稲垣さんはね、出て来るだけで、舞台の空気がフワッと変わるんだよ」
若い頃に演じられた「夏の夜の夢」のパックは今でも語り草です。
その頃、僕は5歳。
残念ながら見ることは出来ませんでしたが、森の中を駆け巡り、若い恋人達にいたずらして回る稲垣さんは、さぞチャーミングで素敵だったと思います。

しかし同時に、気難しく、頑固な人でもありました。
演劇に対する自分の信念を決して曲げない人でした。
稽古中に、共演者や演出家とぶつかることもよくありました。
そういう両面があって、半世紀たっても語り継がれる稲垣さんの演技は生まれたのだろうと思います。

以前、ある先輩にこう言われたことがあります。
「宮本はどの役もそこそこに出来るんだが、それ以上のものがない。それを突き破るようなものがない」
これは僕の強烈なコンプレックスです。
自分を突き破るにはどうすればいいのか。
少年のような心?
今さらそれは無い。
気難しく頑固に?
頑固になるだけの信念もない。

ちょっと憧れる「俳優像」があります。
―――私生活は滅茶苦茶で、敵も多く、自己中心的で、傲慢で、でも舞台に立つと誰よりも輝いて魅力あふれる人。

僕には無理そうです。
「役者は板の上で死ねれば本望」と言いますが、「そんなことしたら迷惑がかかる」と思うくらいですから。

板の上で死ぬことはないにしても、自分は一体どんな死に方をするんだろう…なんて、時々考えるようになりました。
稲垣さんが亡くなった時にも、そのことを考えました。
奥様をなくしてからは、ずっとひとり暮らしだったとのこと。
でも舞台に全てを捧げた人生。
悔いはなかった筈。
でも舞台って、形に残らないし…

そんな時、ある俳優さんからメールを貰いました。
時々メールを下さる、昴ではない人です。

「今朝、稲垣さんの訃報に接しました。宮本君は共演した記憶があり、僕は観劇の記憶。今後はそれぞれの記憶の中で、生き続けます」

僕はこう返信しました。
「最近、自分の人生(仕事)って一体…とよく考えます。誰かの記憶の中で生き続けること、なんでしょうね。稲垣さんは人々の記憶の中に。僕もそうありたいと願います」

そして、その人からの返信。
「人は二度死ぬと言われています。一度目は命を亡くした時、二度目は名前が忘れられた時。生きている者が覚えている限り、人は生き続けています」

この一言がズンときました。

そして数か月前、別の先輩(こちらは昴)の言葉にもズンときました。

ウチのある若手俳優が、自分たち若手は将来が見えないと不満げに言ったことがあり、それを聞いた時の言葉です。
「私達はね、役者という仕事を選んだ時から、自分の人生をバクチにかけてるようなものなの。のたれ死ぬかもしれない覚悟でやってるの。そうでなきゃ、いい芝居なんか出来ないわよ!」

その通り。
僕らは、自分の人生をバクチにかけてるようなものなんです。
先のことなんか考えたってしょうがない。
今日の仕事を一所懸命やるだけ。
だけど、ちょっとは、ハメも外してみたい…とも思うのですが。
僕の場合は、酔って真夜中の住宅街を歩き回るくらいかな。
捕まらないように注意しよっと。
(だから、こういうところが…)
  1. 2016/06/12(日) 01:10:52|
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